戦乱の世、それでも信徒は細々と信仰を守り続けていた。1586年、黒田孝高と毛利輝元との話し合いにより、大道寺の土地は司祭たちに返還されて新たな布教への足掛かりとなったものの、1587年の豊臣秀吉の伴天連追放令により、司祭たちは国外に追放される。同じ1587年、山口で洗礼を受けた盲目の琵琶法師ダミアンは、バテレン追放令後の神父のいない教会で、神父の代わりに山口の信徒を支え続けた。しかし1605年、萩の熊谷元直の殉教をきっかけに、ダミアンも処刑されてしまう。キリスト教信者への弾圧は激しさを増し、山口にいた信者は現在の仁保へ、さらに紫福(しぶき)へ隠れ住んだと言われている。
※琵琶法師ダミアンダミアンは1560年頃に堺で生まれ、全盲の琵琶法師として各地を旅し、家族を持って山口に居を構えた。ここでキリスト教に出会い、25歳の時に受洗する。以来、霊名の「ダミアン」で名を呼ばれるようになるが、本名も家族のことも詳細はわからない。
ダミアンが受洗した当時、山口には司祭・神学生・修道者など総勢30名以上が集うコレジョがあったが、1587年、伴天連追放令によって山口の教会は閉鎖、イエズス会士は全員が平戸に退去する。この時ダミアンは、信者を訪問して励まし、迫害の恐怖から信仰を捨てようとする仲間を勇気づけ、子どもたちに洗礼を授け、葬儀を行い、伝道士(カテキスタ)として、司祭のいない山口の教会の中心であった。ダミアンは知恵があり話術に長けていたため、自身の信仰を雄弁に語り、多くの人がキリストの教えに心を動かされたという。彼はキリシタン弾圧の時代の中にあって熱心に福音宣教を続け、1590年には山口で110名が彼から洗礼を受けた。
やがて毛利氏によるキリシタン弾圧が激しくなり、萩のメルキオール熊谷豊前守元直(くまがいぶぜんのかみもとなお)は毛利輝元から切腹を命じられるが、キリシタンとして自害を拒否し、1605年8月16日、一族11名とともに処刑された。その3日後の8月19日、萩からやって来た毛利の役人は、用事があるからとダミアンに湯田への同行を命じるが、この時ダミアンは死を予期し、体を清め、祝宴に出るように立派な服装で応じた。一行は街道をそれてわき道へ、一本松と呼ばれる場所へやって来るが、ここでダミアンが、「これは湯田への道ではありません。私にとって、道は夜でも明るいのです。刑場への道が鮮やかに見えます」そう言って役人を驚かせた。そして、「用意はできています。信仰のために死ぬことは大きな喜びです」と言うと馬から降りてひざまずき、静かに祈りを捧げて、太刀の前に首をさし出した。この時ダミアン45歳。ダミアンの処刑の事実を隠すために、遺体は細かく切断されて川に流された。しかし、信者たちは翌日になっても戻らないダミアンを案じて必死に捜し、ついに刑場の茂みにダミアンの首と左腕を発見したのだった。
遺骸は貴重な宝として長崎のセルケイラ司教のもとに届けられた。1614年の江戸幕府による禁教令によって国外追放された宣教師たちは、他の殉教者の遺骨とともにダミアンの遺骨をマカオに持ち帰り、サン・パウロ学院の教会に安置した。
ダミアンが処刑されたと伝わる一本松に近い椹野川河川敷では、彼を偲んで山口教会のミサが行なわれたことがある。山口教会敷地内のダミアンホールは、このダミアンの名を冠している。ダミアンは、2007年6月「ペトロ岐部と187殉教者」の中の一人として福者に列福された。
※紫福(しぶき)殉教者祈念地キリシタン紫福の里
1507年~1551年頃(大内義隆の世)、山口にはフランシスコ・サビエルから洗礼を受けた多くの信徒がいたが、その後山口を支配した毛利元就は、1557年にキリシタン弾圧を始めた。山口にいた信徒たちは、仁保村そして紫福村(現在の萩市紫福)に難を逃れて移住した。紫福は二つの山に囲まれた村であったため、多くのキリシタンが身を潜めるに適した場所だった。信徒たちは長く続いた厳しい禁教令の間、この地でキリストの教えを守ってひっそりと暮らした。人々が亡くなると祠型の墓を作って葬り、祠には目立たないようにキリシタンの証しを彫った。その他、仏像に模したマリア像もある。これらの墓や遺物は現代まで、藪の茂みや山深い場所にひそかに隠すように置かれていた。
紫福(しぶき)という地名の由来は、この地に住む人々が鍋山を「至福(しふく)の丘」と呼び、その「しふく」が「しぶき」に転訛したものではないかと言われている。キリシタン墓もこの鍋山の石を使っている。最近まで麓には石屋があって、キリスト教の信仰を持った石工の手によって墓や遺物が彫られたのではないかと推測されている。
遺跡の写真および遺物のいくつかは資料室に展示している。