教会紹介

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ご挨拶

ご挨拶
カトリック山口教会(サビエル記念聖堂)のホームページにようこそ。
カトリック山口教会は、JR山口駅から徒歩15分ほどの所、こんもりと繁った亀山の丘の上にあり、高くそびえる二本の白い鐘楼は遠くからでも見ることができます。
1549年に鹿児島へ上陸したフランシスコ・サビエルは、1550年にキリストの教えを広めるため山口へ向かいました。
山口は、日本で初めて教会が開かれ、クリスマスが初めて祝われた場所でもあります。
私たち山口在住のカトリック・キリスト者は、サビエルが日本にもたらした愛と平和の福音(喜びの知らせ)を大切に受け継ぎ、これを一人でも多くの方に知っていただきたいと願っています。皆さまのおこしをお待ちしております。
 
主任司祭 片柳 弘史神父
カトリック山口教会
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カトリック山口教会
カトリック山口教会
カトリック山口教会
カトリック山口教会

沿革

カトリック山口教会の歩み

1.宣教の土台を築いた聖フランシスコ・サビエルと大内義隆
聖フランシスコ・サビエル(以下サビエル)は、1549年日本に上陸した後、1550年11月初旬に山口に到着したが、山口ではキリスト教を広めることに難儀していた。当時の領主・大内義隆(1507~1551年)に会えば道が開けるのではないかと考えたサビエルは、大内義隆への謁見を願い出た。
しかし一度目の謁見は失敗だった。みすぼらしい身なりのサビエルが語るキリスト教の教理は、支配者である大内義隆の怒りを買い、彼は謁見の途中でサビエルを追い払ってしまった。同年12月サビエルは山口を発ち、堺を経由して翌1551年1月に京に到着し、天皇・将軍への謁見を望んだ。しかし、続く戦乱に荒廃した京では謁見など望むべくもなく、山口を経由して平戸に戻った。
1551年4月、サビエルは再び山口に戻り大内義隆に謁見する。前回の失敗を教訓に、立派な身なりを調え、珍しい13品目の献上品を携えての謁見だった。13品目の献上品は、置時計、オルゴール、鉄砲、眼鏡、望遠鏡、織物、ポルトガル布、葡萄酒、書籍、絵画、茶碗、花瓶などだったと伝えられている。献上品を喜んだ大内義隆は、キリスト教宣教を許し(裁許状)、廃寺となっていた大道寺をサビエル一行に与えた。これが日本初の常設の教会堂(church)である。
以後2か月間の山口滞在で約500人がキリスト教信者になった。ちなみに当時の山口市の人口は、約50,000人である。
大道寺
現代日本カトリックの柱石をなした一人と言われるヴィリオン神父(1868年10月来日)は、大内義隆から与えられた大道寺跡を探すことに奔走する。苦労の末の1893年、彼はついに大道寺遺構を発見。江戸時代の富豪・阿部家のふすまの下張りの古地図に「大道寺」との表記があったのだ。それは「金古曽」のそばにあり、現在その場所は「サビエル記念公園」となって記念碑が建つ。
2.キリシタン迫害・殉教の時代
1551年にサビエルが山口を去った後も、山口に残った宣教師たちは布教をつづけた。しかし、1557年に毛利氏が大内氏を攻め、町が焼き払われて大道寺も焼失した。時代は大内氏から毛利氏に移り、キリスト教徒迫害の時代が始まった。
戦乱の世、それでも信徒は細々と信仰を守り続けていた。1586年、黒田孝高と毛利輝元との話し合いにより、大道寺の土地は司祭たちに返還されて新たな布教への足掛かりとなったものの、1587年の豊臣秀吉の伴天連追放令により、司祭たちは国外に追放される。同じ1587年、山口で洗礼を受けた盲目の琵琶法師ダミアンは、バテレン追放令後の神父のいない教会で、神父の代わりに山口の信徒を支え続けた。しかし1605年、萩の熊谷元直の殉教をきっかけに、ダミアンも処刑されてしまう。キリスト教信者への弾圧は激しさを増し、山口にいた信者は現在の仁保へ、さらに紫福(しぶき)へ隠れ住んだと言われている。
※琵琶法師ダミアン
ダミアンは1560年頃に堺で生まれ、全盲の琵琶法師として各地を旅し、家族を持って山口に居を構えた。ここでキリスト教に出会い、25歳の時に受洗する。以来、霊名の「ダミアン」で名を呼ばれるようになるが、本名も家族のことも詳細はわからない。
ダミアンが受洗した当時、山口には司祭・神学生・修道者など総勢30名以上が集うコレジョがあったが、1587年、伴天連追放令によって山口の教会は閉鎖、イエズス会士は全員が平戸に退去する。この時ダミアンは、信者を訪問して励まし、迫害の恐怖から信仰を捨てようとする仲間を勇気づけ、子どもたちに洗礼を授け、葬儀を行い、伝道士(カテキスタ)として、司祭のいない山口の教会の中心であった。ダミアンは知恵があり話術に長けていたため、自身の信仰を雄弁に語り、多くの人がキリストの教えに心を動かされたという。彼はキリシタン弾圧の時代の中にあって熱心に福音宣教を続け、1590年には山口で110名が彼から洗礼を受けた。
やがて毛利氏によるキリシタン弾圧が激しくなり、萩のメルキオール熊谷豊前守元直(くまがいぶぜんのかみもとなお)は毛利輝元から切腹を命じられるが、キリシタンとして自害を拒否し、1605年8月16日、一族11名とともに処刑された。その3日後の8月19日、萩からやって来た毛利の役人は、用事があるからとダミアンに湯田への同行を命じるが、この時ダミアンは死を予期し、体を清め、祝宴に出るように立派な服装で応じた。一行は街道をそれてわき道へ、一本松と呼ばれる場所へやって来るが、ここでダミアンが、「これは湯田への道ではありません。私にとって、道は夜でも明るいのです。刑場への道が鮮やかに見えます」そう言って役人を驚かせた。そして、「用意はできています。信仰のために死ぬことは大きな喜びです」と言うと馬から降りてひざまずき、静かに祈りを捧げて、太刀の前に首をさし出した。この時ダミアン45歳。ダミアンの処刑の事実を隠すために、遺体は細かく切断されて川に流された。しかし、信者たちは翌日になっても戻らないダミアンを案じて必死に捜し、ついに刑場の茂みにダミアンの首と左腕を発見したのだった。
遺骸は貴重な宝として長崎のセルケイラ司教のもとに届けられた。1614年の江戸幕府による禁教令によって国外追放された宣教師たちは、他の殉教者の遺骨とともにダミアンの遺骨をマカオに持ち帰り、サン・パウロ学院の教会に安置した。
ダミアンが処刑されたと伝わる一本松に近い椹野川河川敷では、彼を偲んで山口教会のミサが行なわれたことがある。山口教会敷地内のダミアンホールは、このダミアンの名を冠している。ダミアンは、2007年6月「ペトロ岐部と187殉教者」の中の一人として福者に列福された。
※紫福(しぶき)殉教者祈念地キリシタン紫福の里
1507年~1551年頃(大内義隆の世)、山口にはフランシスコ・サビエルから洗礼を受けた多くの信徒がいたが、その後山口を支配した毛利元就は、1557年にキリシタン弾圧を始めた。山口にいた信徒たちは、仁保村そして紫福村(現在の萩市紫福)に難を逃れて移住した。紫福は二つの山に囲まれた村であったため、多くのキリシタンが身を潜めるに適した場所だった。信徒たちは長く続いた厳しい禁教令の間、この地でキリストの教えを守ってひっそりと暮らした。人々が亡くなると祠型の墓を作って葬り、祠には目立たないようにキリシタンの証しを彫った。その他、仏像に模したマリア像もある。これらの墓や遺物は現代まで、藪の茂みや山深い場所にひそかに隠すように置かれていた。
紫福(しぶき)という地名の由来は、この地に住む人々が鍋山を「至福(しふく)の丘」と呼び、その「しふく」が「しぶき」に転訛したものではないかと言われている。キリシタン墓もこの鍋山の石を使っている。最近まで麓には石屋があって、キリスト教の信仰を持った石工の手によって墓や遺物が彫られたのではないかと推測されている。
遺跡の写真および遺物のいくつかは資料室に展示している。
紫福 鍋山
紫福 鍋山
3.明治維新後の山口教会
鎖国が解けたのちの1859年、フランスからパリ外国宣教会(パリ・ミッション)の宣教師が来日したが、依然キリスト教徒への迫害は続いていた。しかし、諸外国から「宗教の自由を認めない国」との批判を受け、明治政府はようやく迫害の手を緩めた。1888年、パリ・ミッションのコンパニオン神父が山口に赴任し、ようやく山口教会が再興されていくこととなる。
4.今道教会と大道寺跡
1625年の大迫害の中で山口の最後の司祭ポルロ神父から数えて約260年ぶり(1888年)に、パリ・ミッションのコンパニオン神父、次いでヴィリオン神父が山口にやって来た。最初は民家を借りて祈りの家を開いたが、ヴィリオン神父は町の中心から離れていた祈りの家を、1889年に中心地の米屋町に移転させ、さらに1895年、今道町に本格的な聖堂が建てられた。
現在、亀山町にある聖堂ができるまでの約57年間、今道教会は信徒の祈りの家となった。
現在もこの今道教会で育った信徒は健在である。
今道教会は平屋の日本家屋で、屋根は瓦葺き。建物の正面に大きな十字架を配し、敷地の周囲は杉垣。
門から聖堂まで両側の歩道にヒノキや八重桜などが植えられていた。
一方でヴィリオン神父は大道寺跡を探し続け、1913年、おそらくそれであろうと思われる遺構を発見し(異説もある)、その土地を買い取った。1921年、山口県知事を中心に跡地の保存会が発足、1926年に跡地(現在のサビエル公園)に記念碑が完成。1928年にはヴィリオン神父の偉業をたたえて同地にヴィリオン神父の胸像が設置されたが、1944年、太平洋戦争における兵器製造のために胸像は没収されてしまう。
戦後、サビエル遺跡顕彰委員会が発足し、1949年にサビエル渡来400年記念行事が行われた。
5.旧サビエル記念聖堂(1952年-1991年)
山口教会は、1952年に今道町から亀山町に移転し、スペインにあるサビエル城の教会を模した聖堂が建てられた。
サビエル城とその教会
サビエル城とその教会
設計者は、ヤルノス・ヨセフ(スペイン)とグロッペル・イグナシウス(ドイツ)の2人で、敗戦後間もない中での建設のために資材の不足や建設費高騰の憂き目にあい、当初予定されていた鉄筋コンクリート造りは木造コンクリート造りに変更された。1991年に焼失するまでの40年間、この聖堂は山口市民にとても愛され、その鐘の音は市民の生活に根付いて時を知らせた。
6.現在のサビエル記念聖堂(1998年-)
旧サビエル記念聖堂の焼失から7年の歳月をかけて、1998年に現在のサビエル記念聖堂が再建された。
設計はコンタンチノ・ルッジェリ神父とルイジ・レオニ(どちらもイタリア人)による。新しい聖堂は、幕屋・光・水をモチーフにした近代的な聖堂である。幕屋は神の家を表わし、光が美しいステンドグラスごしに聖堂に降り注ぐ。水は洗礼や新しい命の源を表わす。ステンドグラスは聖書の言葉をテーマに制作されていて、刻々と移る日差しにより聖堂内に素晴らしい光景を映し出す。鐘塔には9つの鐘が設置され、それぞれの鐘に平和と幸せを告げるメッセージが刻まれている。

営業時間

事務所 9:00~17:00
聖堂 10:00~16:00
資料室 10:00~16:00
サビエル書院 土曜・祝日 10:00~16:00
日曜 10:30~16:00

司祭紹介

司祭紹介
向かって左から
  • 外川直見 神父
  • ドメニコ・ヴィタリ 神父
  • 片柳弘史 神父(主任)
  • グエン・ミン・トアン 神父

アクセス

山口サビエル記念聖堂

交通機関
在来線 JR山口駅より徒歩15分
バス 新山口駅北口(防長バス 県庁あるいは宮野方面行〇〇系統)中国電力前下車
徒歩5分
車でお越しの方
中国高速道路利用 山口I.C.より約15分、あるいは湯田温泉スマートI.C.より約15分
山陽高速道路利用 小郡I.Cより約20分

関連施設

サビエル記念公園

サビエル日本宣教を記念して、山口市金古曽町にサビエル記念公園が作られた。サビエルの記念碑を建立。
山口サビエル記念聖堂から徒歩で約15分。車で約7~8分。

柊カトリック墓地

毎年、お盆とお彼岸の時期に墓地でミサが捧げられます。日時はミサのページをご覧ください。
山口市内から車で約20分。

紫福キリシタン祈念地

毎年5月頃にこの地でキリシタン迫害を偲び、ミサが捧げられる。ご案内はミサのページをご覧ください。
山口市内から車で約1時間、萩市内から約30分。

地福教会

地福教会
〒759-1421
山口県山口市阿東地福上1838
TEL 083-952-0308(原医院)

山口天使幼稚園

〒753-0089 山口県山口市亀山町4-2
TEL 083-922-2614
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