主の洗礼 ミサ説教
罪びとの列に並ぶ
マタイによる福音3:13-17
 
 福音宣教の始めに、イエスが罪びとたちの列に並び、ヨハネから洗礼を受ける場面が読まれました。イエスが水から上がったとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から響いたとマタイ福音書は記しています。救い主としての使命を果たすときが来たことを知らせる、天からのしるしと言っていいでしょう。救い主になるために、イエスは罪びとの列に並び、罪びと共に洗礼を受ける必要があったのです。
 年末に、主の洗礼の行列を思い起こさせるような出来事がありました。名古屋の公園で、炊き出しの手伝いをさせてもらったときのことです。北風が吹きつける公園で、炊き出しの列にずらっと並んだ人たちの姿を見ながら、わたしは、「この行列の中にイエスがおられるのだ。この人たち一人ひとりがイエスなんだ」と思って胸が締めつけられるような気がしました。あちこち穴の開いた服を着て、無表情な顔の高齢者。うつむいて、疲れ切った表情の若者。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエスが言ったのは、まさにこの人たちのことでしょう。この人たちの中に、確かにイエスがおられるのです。イエスは、この人たちの中にいて、冬の寒さや空腹の痛み、一人ぼっちのさびしさなど、生きることの苦しさを彼らと一緒に味わっているのです。イエスも、彼らと一緒に炊き出しの列に並んでいるのです。
 イエスは、社会の片隅に追いやられて生きる貧しい人々を、彼らと一緒にいること、彼らの苦しみを共に担うことで救う救い主でした。そのことを思い出すとき、なぜイエスがヨハネの洗礼の列に並んだのかがわかります。イエスは、罪びとと見なされて社会の片隅に追いやられた人たちの中に入り、自分もその中の一人になったのです。彼らの苦しみや悲しみを一緒に担うために、イエスは洗礼の列に並んだのです。そのようなイエスのふるまいを見たとき、神さまが発した言葉、それが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉だったと考えてよいでしょう。イエスが人間として生まれたのは、人間が味わうすべての苦しみを、同じ人間として共に味わうため。神御自身が、人間の苦しみを自分自身のこととして味わい、人間に深く共感するため。神が人間を、同じ人間として愛するためでした。イエスこそまさに、そのような神の思いを実践する、神の「心に適う者」だったのです。
 福音宣教の始めにイエスがヨハネから洗礼を受けたと言いましたが、正確には、罪びとの列に並んだこと自体が福音宣教の始めであり、イエスの福音宣教そのものだったと言うべきでしょう。わたしたちと同じ列に並んでくださるイエスの愛に心から感謝し、わたしたちも、イエスに倣ってその愛を実践できるよう。貧しい人々、社会の片隅に追いやられた人たちの苦しみを、共に担うことが出来るように祈りましょう。
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